5.浅間天明大規模噴火(西暦1783年)Large-scale Eruption of Tenmei Era (1783A.D.) 高橋正樹・安井真也・竹本弘幸(日本大学文理学部地球システム科学教室)
天明3年(1783年)の大規模噴火は,人口が比較的周密な地域で,しかも江戸時代末期というかなり文明化された最近の出来事であったことも幸いしてか,きわめて多くの古記録が残されており,その噴火の経緯をかなりの程度明らかにすることが可能である.以下では,そうした古記録と地層に残された自然の記録とを対比しながら明らかにされてきた浅間前掛火山1783年噴火の概要について紹介してみたい.なお,まだ多くの謎が残されている鎌原火砕流・岩屑なだれを除く噴火現象の詳細についてさらに知りたい方は,安井ほか(1997),Yasui and Koyaguchi(2004)などの論文を参考にしていただきたい. 5-1 降下軽石(As-A)天明3年の大規模噴火の噴火経緯の概要について簡単にまとめたものが図5-1である. 噴火が開始されたのは5月9日である.このときには浅間前掛火山の鳴動が記録されているが,降灰があったかどうかは不明である.その後1ヶ月半ほどの休止期をおいて,6月25日の午前11時に噴火があり東方に降灰があったことが記録されている.このときは噴煙が上がり,中規模程度のブルカノ式噴火を行ったものと考えられる.再び3週間の休止の後,7月17日の午後8時に噴火があり,北方に軽石が降下した.このときには盛大に噴煙があがり,小規模なプリニー式に近い噴火活動を行ったらしい.4日後の7月21日から26日までは,断続的に噴火が発生し降灰がみられた.この間は小規模〜中規模のブルカノ式噴火を行ったものと考えられる.7月27日から30日までは,断続的なプリニー式噴火があり,主に北東方向に軽石が降下した. 2日間の静穏期の後,8月2日から4日にかけて断続的にプリニー式噴火が起こり,軽石が今度は南東方向に降下した.8月4日の夕方から翌5日の早朝にかけての約15時間にわたって大規模な激しいプリニー式のクライマックス噴火が続いた.これにより,軽石が激しく降下し,火口付近には火砕丘が形成されるとともに,多数の火砕流が流下した.さらに,激しい噴火による急速な堆積のため強く溶結した火口付近の大量の火砕物は,重力的不安定のために再流動し,火砕成溶岩となって次々と北麓に向って流れ下った.その後,翌5日には,鎌原火砕流・岩屑なだれが発生し,この一連の噴火活動は終わりを迎えた.4日の夕方から5日の早朝にかけてのクライマックス噴火時に頻発した火砕流が吾妻火砕流である.また,このとき流下した火砕成溶岩が鬼押出溶岩である. 天明噴火では,噴火活動は本格化してから2週間あまり断続的に続き,2日間の静穏期を経て,クライマックスの大噴火に至っている.この降下軽石は,分布の主軸方向に近い軽井沢宿などでは建造物を押しつぶし火災を発生させるなどの被害をもたらしたが,人的な被害の方はごくわずかであった.現在このクラスの軽石降下があった場合には,建造物や鉄道などに対する被害や経済的な損失は大きいものと思われるが,人的被害はやはりごく限られたものとなるであろう. 5-2 吾妻火砕流図5-5は高温と自重のために強く溶結した吾妻火砕流堆積物の断面である.ややつぶれた黒色を呈する楕円体は本質岩片であり,周囲のマトリックスは火山灰から構成される.縦方向の割れ目は,高温の火砕流堆積物が冷却する際に収縮することでできたもので冷却節理とよばれる. 吾妻火砕流は8月4日から5日未明にかけてのクライマックス噴火時に多数のユニットとして流下したが(図5-6),8月2日から4日にかけての時期にもすでに流下していたらしい.吾妻火砕流は最大で火口から10kmほど離れた地点にまで到達しているが,その流走した六里ヶ原とよばれる地域の森林はすべて焼き尽くされた.幸いなことに,この火砕流による建造物に対する被害や人的な被害はほとんどなかった. 現在このクラスの火砕流が噴出した場合,火口から10km以内の地域は壊滅的な被害を被る可能性が高い.特に北麓では,吾妻火砕流堆積物の上に多数の別荘地などが分布しており,同じような火砕流が発生した場合,これらの地域は当然のことながら壊滅せざるを得ない.火砕流は歴史時代の大規模噴火では必ず発生しており,大規模噴火の際には最も警戒すべき対象であるといえる. 5-3 鬼押出溶岩鬼押出溶岩は8月4日から5日のクライマックス噴火時に流下した溶岩である。ただし,火口から液体の溶岩が溢れ出て流下したものではなく,10km以上の高度まで上昇した噴煙柱から15時間以上にわたって火口付近に降下し急速に堆積した火砕物が強く溶結し再流動して流下した火砕成溶岩であると考えられる.図5-7 Aにその生成の様子を模式的に示す. 鬼押出溶岩の表面には溶結した火砕岩の構造がよく残されており(図5-7B,C),ボーリングによって得られた溶岩内部のコア断面にも溶結組織の発達が明瞭である(図5-7D). 鬼押出溶岩による直接的な建造物への被害や人的な被害は皆無であった.現在こうした溶岩が流出したとしても,火口から8km以内の溶岩の流路に当たる地域以外には建造物への被害はないし,また流下速度がおそいので人的被害もほとんどないであろう.ただし,当然のことながら流路に当たる地域の建造物への被害は免れない. 5-4 謎の鎌原火砕流・岩屑なだれ鎌原火砕流・岩屑なだれが生じたのは,クライマックス噴火の末期に当たる8月5日である.鎌原火砕流・岩屑なだれの成因については不明の点が多く,これまでに複数の説が提案されている.8月5日の午前10時には大きな爆発音が発生し,この音は遠く京都まで聞こえたという.この大爆発が鎌原火砕流と鎌原岩屑なだれの成因と密接な関係があることはほぼ間違いない.天明大規模噴火は1500名を超える犠牲者を出したが,その原因となったのが鎌原岩屑なだれである.もし,鎌原火砕流・岩屑なだれの発生がなければ,天明大規模噴火の犠牲者はごく限定されたものですんだに違いない.その意味で火山防災上鎌原火砕流・岩屑なだれは重要である.しかし,噴出物の量の少なさやその流出機構の特殊性を考えると,この事件は天明大規模噴火全体の中では,さまざまな特殊条件が重なったことでたまたま生じた,偶発的でしかも副次的な出来事にすぎないといえるかもしれない. 鎌原火砕流・岩屑なだれ堆積物は,巨大な本質岩塊を含むきわめて特異な堆積物である.本質岩塊は着地時にまだ高温で内部のガスによる膨張を続けた証拠をもつ1種の巨大な「パン皮状火山弾」であり,長径が20mを超えるものも稀ではない(最大で長径65m).この堆積物がある種の「爆発性」堆積物であることはまちがいないようであるが,その成因については未だ完全な決着はついていない. 鎌原岩屑なだれ堆積物は低温の乾燥した岩屑なだれ堆積物の特徴を多く備えており,十分な水を含んでいた証拠に乏しい.岩 屑なだれ堆積物中には高温の本質岩片が含まれており,その周囲は局所的に高温であったらしい.鎌原岩屑なだれは高速度で谷沿いに流れ下り,谷沿いに分布していた当時の鎌原集落を埋め尽くし,477人の犠牲者が生まれた.さらに吾妻川に流れ込み,川の流れを一時的に堰き止めた.やがて,この堰は決壊し,土石流(熱泥流)として吾妻川を一気に流れ下り,下流域に洪水をもたらした. これまでに提案されている鎌原火砕流・岩屑なだれの成因説としては以下のようなものがある. (1)巨大な本質岩塊を含んだ火砕流(鎌原火砕流)が流下し,着地地点の地面を削りとり土砂を押し出すことによって岩屑なだれ(鎌原岩屑なだれ)が発生した(荒牧,1993など)(図5-10). (2)鬼押出溶岩流出後,山頂火口付近で生じた爆発的な斜め噴火によって火口を埋積していた溶結火砕岩が巨大な岩片となって吹き飛ばされ,一部は火砕流として,また一部は放物線を描いて放出された.それらはすでに流出していた溶岩流を飛び越え,着地した場所で二次的爆発を起こし,地面を削り取り土砂を押し出すことによって岩屑なだれを発生させた. (3)鬼押出溶岩が流下中に下位の山体の一部が溶岩とともに崩壊し,火砕流と岩屑なだれとなって流下した(田村・早川,1995). (4)当時山腹に存在した柳井沼付近でマグマ水蒸気爆発が起こり,火砕流と岩屑なだれが生じてそれが流下した(井上ほか,1994). (5)鬼押出溶岩が当時存在した柳井沼を覆い,そこでマグマ水蒸気爆発が起き,吹き飛ばされた溶岩片が火砕流となって流下した.火砕流は下流の土砂を掘り起こし,岩屑なだれを生み出した.この時形成された爆裂火口は,後から流下してきた鬼押出溶岩の別のユニットによって覆い隠されてしまった.
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