三宅島の噴火史文責:中山聡子 2000年〜三宅島噴火以前の噴火について三宅島は,火山の島です.20世紀にはいってから,2000年〜噴火を含めると4回も噴火をしています.20世紀に入る前にも,何回もの噴火を繰り返し現在のような姿となりました. ここでは,4000年前からの三宅島の噴火を簡単に紹介します. 約4000〜約2500年前(八丁平形成期)大規模マグマ水蒸気爆発を行い,スコリア放出や火山豆石を大量に噴出した時代です.堆積物が,島全体を数10cmの厚さで覆う様な噴火で,古代人を含め島内の動植物に大打撃を与える激しいものでした(津久井・鈴木,1998).この噴火の堆積物は,火山豆石層や降下スコリア層,爆発角礫岩からなります.年代は,鬼界・アカホヤ火山灰のような鍵層,遺跡などを用いて算出されています(津久井・鈴木,1998). 1085(応徳2)年富賀平(西側山腹)にて噴火が起こりました(有史初めての噴火記録です)(宮崎,1984).津久井他(1998)によると,一色(1984),国土地理院(1995)が,1085年溶岩としているものは,野外で観察される層序から,阿古〜環状林道に向かう南戸(なんと)林道に沿ってみられる南戸溶岩に相当するとしています. 1154年(久寿元)年11月赤穴・火の穴・赤場暁(あかばっきょう) にて噴火が起こりました. 以後の1469年からは,山腹噴火が主となり,山頂火口からの顕著な火山灰の噴出を伴わない噴火に移行していきます(宮崎,1984).この噴火はシトリ神社付近の割れ目噴火から噴出したものとされています(一色,1984). 1469年(文明元)年12月24日笠地の北(言い伝えでは,伊ヶ谷)にて噴火がおこりました.国土庁土地局国土調査課(1987),国土地理院(1995)では笠地の奥で噴火したという言い伝えを元にしていいます.また,桑木平カルデラ西よりの貯水池付近のカルデラをあふれだした阿古北方の榎沢溶岩流が,この噴火によるものであるとも考えられています(津久井・鈴木.1984). 1535年(天文4)年3月山頂・ニホンダナ・ビャク(現在の空港付近)(南東山腹)にて噴火しました. 噴火の活動は古記録に記述されていません(宮崎,1984).一色(1960),国土地理院(1995)では,1535年の噴出物は,八丁平カルデラから島の南東へ延びた噴火割れ目にそった複数の火口から流出した溶岩流に相当すると記述しています.またこの溶岩流は,鎌倉時代の遺構を覆うことから年代が推定されました.また割れ目にそってスコリア丘が形成され,ベンケ根岬溶岩流が金層マール,現在の三宅島空港滑走路を経て海岸へ流れ下り,ベンケ根岬をつくりました(津久井・鈴木,1998). 1595年(文祿4)年11月釜方(南東山腹)にて噴火(宮崎,1984).1595年の噴火は1535年の割れ目にそって噴火が起き,スコリア丘が形成され,釜方溶岩流が釜方まで下りました.露頭観察からこのときの降下スコリアが1535年の噴出物を覆っている事が確認されています(津久井・鈴木,1998). 1643(寛永20)年3月コシキ・今崎・榊山・夕景・錆(南西山腹)にて噴火が起こりました. 古記録を元にすると,村人に恐怖を与えるような現象(例:強震)は発生しなかったと考えられます(宮崎,1984).一色(1960)によるとコシキ岩滓丘及び今崎溶岩,阿古部落台地溶岩ならびに錆ヶ浜南端の溶岩はこの噴火によるものです.また,コシキ岩滓丘の活動だけでは坪田村の被害は説明しにくいので桑木平寄生火口も活動したとしています(宮崎,1983).また,津久井・鈴木(1998)ではこの噴火で噴出した溶岩流,降下テフラの分布とスコリア丘を一連の事件で説明しようとすると,コシキスコリア丘と桑木平を結ぶ割れ目を想定すると都合が良いとしています. 1712(正徳元)年12月28日桑木平竜根ノ浜(南西山腹)において約2週間の噴火.壬生家の"神火之記"によれば,桑木平付近より始まった割れ目噴火が次第に山麓方向に広がり,海岸部で大火柱(大火戸:おそらくはマグマ水蒸気爆発)をたてるような状況が描写されています(宮崎,1984).津久井・鈴木(1998)では1947年米軍撮影の空中写真を元に,3条の割れ目のうち最も東側のものから,中腹〜南へ溶岩流が流出し,海岸まで達しています.その後その溶岩流は西進していることが読みとられています.この時期の噴火の記録で重視すべきは「泥水湧出」という現象である(宮崎,1984).津久井・鈴木(1984)によれば,泥水は新澪池の東側にあったマールの形成に関連する事象だと推定されている.また噴火の期間も"神火之記"によれば2週間,"詳異"によれば2年間と大変違っています.もし仮に2年間活動したとすれば,おそらくは山頂活動であったと宮崎(1984)ではしています. 1763(宝暦13)年7月9日から1769年(明和6年)山頂,薄木,新澪での噴火活動.活動は7年間続きました.記録によると,噴火は山頂より開始されこの噴火で生じた薄木ホドが新澪池だといわれています.新澪池を生じたマグマ水蒸気爆発の噴出物を"焼石焦砂"と示し集落に降ったものを灰と示しています.また,7年間続いた噴火でしたが古記録からだけではその詳細は不明です(宮崎,1984).この時期の噴火に対応するとされる降下スコリアが南西から南東にかけて厚く分布しています.また新澪池を形成したと考えられるマグマ水蒸気爆発由来の爆発角礫岩層が,薄木,富賀神社付近,阿古では数10cmの厚さで堆積しています(津久井・鈴木,1998).また1763年の噴出物を覆う堆積物も確認されています.この堆積物は赤色の火山弾が新澪池のマグマ水蒸気爆発由来の堆積物を数mの厚さで覆っています.空中写真判読からは,溶岩流も伴っているとされていて,この溶岩の噴出は7年間の噴火の後半に起きたか,1769年の記録に漏れた噴火であったと考えられます(津久井・鈴木,1998). 1811(文化8)年1月27日噴火の期間は1週間,シトリ山中(北東山腹)にて噴火.噴火前に地震活動を伴い,火口が次第に移動していったという記録が残されています.このことから,一色(1960)はシトリ神社の南西にある西南西・東北東にのびる火口は,この活動によって形成された可能性が高いとしています(宮崎,1984).環状林道沿いでみられる1154年スコリア及び,村営牧場の火山灰層の上位に見られる厚さ10cmほどの降下スコリアがこのときの噴出物と考えられています(津久井・鈴木,1998).また噴火後に,激しい地震活動が起きています(宮崎,1984). 1835(天保6)年11月10日約10日間,富賀平ー笠地(西側山腹)で噴火.雄山の西側の山腹で噴火し,噴火発生後に被害地震が起きた記録が残されています(宮崎,1984).国土地理院(1995)では,溶岩は西側山腹の標高500m付近の割れ目から流出し,笠地観音近くで止まっていると示しています.翌年にも大地震があり,新島の石垣が崩れたとされています.このことからこの地震は,むしろ三宅島北方,新島,神津島海域に発生した可能性が高いとされています(宮崎,1984). 1874(明治7)年7月3日大穴南西・焼場にて噴火.7月3日12時頃開始し,雄山西北の半腹辺より大小の噴石を噴出しました.この時の火口は7〜9世紀に開いたコシキ穴,大穴の西側,標高560〜200mでした(津久井・鈴木,1998).溶岩により東郷部落の30軒あまりが埋没,焼失しました.この噴火に関する記述は様々で,前兆地震があるのか否かに関しても記録によって分かれています.その後の調査により,噴出量は"1.6×107m3"(一色,1960)であるとされています. 1940(昭和15)年7月12日〜8月5日神着-坪田旧村界の谷付近・山腹にて噴火が起こりました.この噴火に関しては科学的調査が初めて実施されました.噴火には前兆現象が伴われ,地熱の上昇,噴気の発現,地鳴などが一週間前から認められていました.噴火自体は,7月12日の19時半ごろ雄山北東山腹で開始されました.翌日以降の13日18時頃までほとんど連続的に噴火し,その後急速に弱まり13日夜半には事実上終息しました.その後,7月13日の夜半頃からは山頂中央火口大穴火口で噴火が始まり,18日頃まで猛烈に噴火し火山灰を降らせました.21,22日は山麓でも爆音が聞こえ,火山灰の他にスコリアが降下するようになりました.活発な活動は30日まで続きましたが,31日以降は弱まり,8月5日には完全に終息しました.この噴火による噴出量は"1.9×107m3"です(Tsuya,1941).またこの噴火で30もしくは100の人家が埋没した災害が発生したため三宅島測候所が創設されました. 1962(昭和37)年8月24〜26日神着-坪田旧村界の谷付近・山腹にて噴火が起こりました. この年の5月5日,三宅島の西方約15kmで地震が発生しました.三宅島では震度4.この地震を境にし,新島,神津島,御蔵島と三宅島を囲む海域で深度0〜20kmを震源とする地震活動が7月23日まで続きました. 島内におけるその後の噴火の前兆現象は8月24日まで起きていません.8月24日20時57分,三宅島で震度1の地震を観測し神津島の一部では強い地震が起きました.三宅島島内では20時29分頃より測候所の地震計に微動が観測されはじめました.22時20分頃,神着,坪田の両村界の山腹で噴火しました.23時頃には山腹から海岸まで火柱が並び,26日朝まで活動は続きました.三七山はこの噴火により形成されました.またこの噴火による溶岩及び噴出物の堆積は,"0.9×107m3"(諏訪,1963)です.噴火後の翌月も強震が続きましたが,噴火した地域とは震源が異なり噴火も起きませんでした(宮崎,1984). 1983(昭和58)年10月3〜4日二男山,村営牧場,阿古,栗辺,新澪,新鼻において噴火.9月19日〜20日,新島東方沖で最大地震M3.6を含む群発地震が発生しました(宮崎,1984).噴火は,10月3日15時15分ごろ,雄山火山南西中腹にある二男山付近で突然始まり全長4kmの割れ目噴火になって溶岩や火砕物を噴出しました.島の南端では,マグマと地下水・湖水・海水との接触に基づくマグマ水蒸気爆発を生じ,4日には噴火は終了しました.この間に噴出した溶岩の噴出量は合計3000万トン(内,溶岩流1500万トン,火砕物1500万トン)とされています(遠藤ほか,1984).二男山から村営牧場にいたる割れ目火口の北部からは溶岩噴泉がほぼ連続して立ち並び,西方,阿古方面へもっとも規模の大きな溶岩流が流下しました.東方には,スコリア丘が連続し,5km東方の三池方面にまで降下スコリアを堆積させました.割れ目火口の南部は,旧外輪山の斜面に位置し,孤立した爆裂・陥没火口を伴い,断続的に配列する溶岩噴泉から2筋の溶岩流を流下させ,東側にそれぞれ独立したスパッターを形成しました.新澪・新鼻付近では,爆裂火口やスコリア丘,リング状砕屑丘(タフリング)等が南北にほぼ一直線に並び,非常に発泡の悪いスコリアから発泡の良いスコリアまで変化に富み,サージ堆積物やコックステイルジェットの堆積物とされる特有の不淘汰堆積物など,マグマ水蒸気爆発の影響が強く認められる噴出物を形成しました(遠藤ほか,1984). 20世紀の噴火は,2000年噴火を除いて,溶岩やスコリアを噴出する噴火様式でした.ですが,過去の噴火を振り返ると,マグマ水蒸気爆発も数回起こしているようです. ↑このページの最初へ
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